心の広さはA4くらい

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29. 無題

一人飄々として街路を行く
長月の太陽に射貫かれながら 決して猫背にはならず
あちらでは二十歳 こちらでは三十路とうそぶきながら
ただビールの苦みと酩酊だけに信を置く俺

文庫本の中から「実のない男」と罵られ
一時良心の呵責を感じながらも
さらりとページを繰って池袋から新宿へ渡る

池袋
雑踏を抜ければ赤々と右頬を焼く夕焼け
手を繋ぐ女の横顔は美しいと思えど
ただビールの苦みと酩酊だけに信を置く俺
山手線では嘘しか言わぬ

アルタ前通りには一片の真実すら落ちていない
だから歌舞伎町へ人の真実を拾いに行くのだ
ガードレールで栓を抜き ビールをあおる 歌舞伎町の夕暮れ

28. 人間はみなカエルだ。

僕は冷め切ったラーメンのスープをレンゲですすりながら、ただカエルの話が終わるのを待っていた。白く硬化したラードがスープの表面に浮いている。こんなもの旨いわけがないのだが、いちいちカエルの話にリアクションを返すのが面倒だったので、僕はスープをすするのをやめなかった。

カエルは昨夜のドライブについて興奮気味に語っていた。……車だと結構無防備になりますよ、基本的に周りから見えないですからね、リラックスしちゃって、シートにもたれてるとこをこう、手が空いたら触ったりしてますもん、いやぁ、いやいや、全然、信号待ちしてる時とかはずっと触ってますよ、ははは、結構ホントに無防備なんですよ、あれはしょうがないですって。

そのご自慢のスポーツカーと、会う度に連れてってやるというコース料理くらいしか取り柄のない、カエル顔の27歳。最初はただ脂ぎった顔と突き出した歯茎の印象から、心の中でひっそりとカエルとあだ名していただけだったが、こうして冷静に一歩引いて見ると、まるでこの男、カエルではないか。

カエルはその後も丸々三十分間同じような醜いノロケ話を展開した。欲望に脂ぎった、醜い愛だ。その間僕はずっとカエルの眉間に浮いた油を見ていた。出っ歯の眉間に浮いたねっとりとした脂汗は、手遊びに僕がかき混ぜていた冷え切ったラーメンのスープ、そこに浮いている白い油と似て、ひどく不愉快な質感をしていた。

帰りの電車は若い男女でひどく混み合っていた。花火大会だか縁日だかがこの近くであったらしい。九時半まで残業して、そのあと丸々一時間半カエルの話に付き合っていた僕には微塵も関係のない話だった。しかし、世界は秒毎に姿を変え、地球は回り続けている。かくもみじめな僕の事情とはおかまいなしに、車内の男女は脂ぎった膚と膚を押し付け合い、汗と汗を混濁し合い、唾液と唾液を交換し合っていた。情事は常時進行中なのであって、昼下がりや団地妻に限った話ではないのだ。

××駅の改札を抜けると、駅前の小さなロータリーでまぐわっている浴衣や茶髪や鼻ピアスの若者の姿が見えた。会話や愛撫、視線など、それぞれ手段は違ったが、目的はただ一つ、粘膜と粘膜のリレーションシップ、それを築こうという、ただそれだけの、脂ぎった意志だった。

フェロモンと汗の匂いに包まれて、引っ付きあった男女の生殖器官はもうどうもこうもならん、そんな状態にまで達していた。お互いの顔と匂いしか彼らの感覚には入らない。そうして夢中でいる二人とは裏腹に、ビール一杯分のアルコールも血液に溶かしていない冷め切った僕の視線は、情景をひどく滑稽なものとして捉えていた。

人間は皆、カエルだ。その求愛の囁きは相手にとっては甘い詩歌の響きとなろうが、傍目から見れば何のことはない、単なるカエルだ。まん丸く腹を膨らませてゲロゲロゲコゲコ鳴いている。ただ性交を交わし、どろっとしたのをぴゅっとしてすっきりしてしまうためだけに、花火も浴衣もスポーツカーも道具にされる、それだけだ。滑稽だ。何と滑稽なことだろう? その滑稽さに気づかないか、カエルどもよ。もとより愛とは滑稽なものであるが、それにしても……。

こんなに蒸し暑い夏は、やってられない。

27. 『ホース犬』

届いたのはちょっと小ぶりのダンボール箱だった。ガムテープで何重にも封がしてあって開けるのに一苦労だったが、ようやく最後のテープを剥ぎ取ると奴の方から蓋を跳ね上げて飛び出してきた。

最初子犬かと思ったが、よく見てみると尻尾のところから青いゴムホースが伸びていて、顔には耳と鼻がなく、ビー玉みたいにきらきら光る大きな目と愛らしい口がついているだけだった。そのホース犬は外の空気に触れられたことに大層ご満悦の様子で、僕のアパートの狭い玄関でせわしなく跳び回っているのだった。

箱の底に置かれていた説明書(ホース犬が漏らした小便のせいで黄ばんでいた)を取り上げて眺めてみたが、何語なのかすら判読できない。文字というより現代音楽の図形楽譜のように見えた。僕は実際に図形楽譜を見たこともないし、図形楽譜で演奏された音楽を耳にしたこともなかったが、その奇妙にねじくれた線の羅列は音楽を含んでいるように思えたのだ。

その間にもホース犬は僕の部屋を荒らしまわっていて、灰皿を引っくり返したり積み上げた本の山を崩したりとやりたい放題。僕は頭にきてホース犬を風呂場へ連れて行き、尻尾なのかホースなのか、とにかくその尻尾的な青いホースを蛇口につなげて水を出した。

途端にホース犬の形相が変わった。先ほどまでの愛らしい表情は消え去り、加えて獰猛なうなり声まで上げ始めた。その表情は、一昨日新宿で見掛けたホームレスの恐ろしい顔を僕に思い起こさせた。灰と茶色を混ぜたような色をした雑巾より小汚い服を着て、ぶつぶつ何かをつぶやきながら、すれ違う人々を一人一人睨み上げ、ねめまわす。ねじくれた精神と狡猾な魂を持ち、ただ行く宛てもなくさすらっている。あまりに印象深い形相だったためによく覚えていたのだが、それと全く同じ表情が、今ここに、この奇妙な犬の顔面に浮かんでいる。

やがてホース犬は少しずつ膨らんでいき、ビーチボールのようにまん丸になってしまった。相変わらず表情は例の醜くも恐ろしいホームレスのそれのままだったが、滑稽な姿のために薄気味悪さは消えていた。

僕は何気なく腹をつついてみた。すると突然口からびゅーっと水が噴出して、ホース犬はあっという間にもとの大きさまで萎んでしまった。その時のはずみで尻尾的ホースは蛇口から外れた。ホース犬はもとの愛らしい表情を携えて、何故かじっと僕の方を見ていた。

新宿駅東口をさすらっていたあのホームレス。あの男はもごもごと何かをつぶやきながら歩いていた。多分それは、世界に対する呪詛の言葉であったように思う。世の中には白い雲や酸素、赤い風船やコンペイトウさえも憎まずにはいられない、そういう種類の人間がいる。万人が共有できる幸福の象徴なんてあるはずがない。上野公園のホームレスは平和の象徴、鳩を焼いて食っているのではないかと、僕は常々思っている。

ホース犬は風呂場を飛び出し、僕のトートバッグの中に頭を突っ込んで尻尾を振っていた。その尻尾的な青いホースを、いや、青いホース的な尻尾を、と、言うべきだろうか。

文章:ビール

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