『傘と雨の所為』

俺は小学生の頃から雨降りが嫌いだった。だけど、傘をさすのだけは好きだった。雨は嫌いだ。じめじめして、じゅくじゅくして、オレンジジュースをこぼしたあとの机の上みたいにベタベタしてて、気が狂いそうになる。

ある時俺は地下鉄にいた、地下鉄のホームにいた。確かあの日は雨だった、雨降りの七月だった。地下鉄を降りた俺は車内で感じていた堪え難い湿度と体臭がホームにまで漂っているのに気づき、思わず叫び声をあげてしまった。走り去る地下鉄が響かせた轟音に紛れたおかげで、俺の叫び声は周囲にいたほんの十数名にしか気づかれなかったが、俺はやはり、雨が降ったら叫ばなければならない、衝動を押し殺すのはよくないことなのだ、と、改めて悟った。

だが傘をさすのは愉快だった。医者や教師は、「人の目を見て話せ」なんてくだらない説教をしたがるもんだが、俺は臆面もなく人の目を見られるような毛むくじゃらの心臓を持ったブタどもと親しくするつもりはさらさらなかった。世間にはその手の、がさつで、無礼で、無神経な輩が多過ぎる。だから俺は傘をさした。傘をさしている間だけは、少なくとも、誰とも目を合わせずにすむ。

傘さえあれば、雨に汚濁された外気と体臭を撒き散らして歩くブタどもとの間にナイロンのカーテンをひいて、俺は一人きりで都会を歩くことができる。傘さえあれば俺は、自動小銃の夕立でもチェルノブイリの赤い空でも、気にせず歩いて行ける気がした。

* * *

「続いては、二人が死亡、八名が重軽傷を負った埼玉の連続通り魔事件の続報です。埼玉県警は昨日未明、殺人未遂の容疑で春日部市の無職・岩藤守(いわふじ まもる)容疑者、二十一歳を逮捕しました。

調べによりますと岩藤容疑者は、八日の昼から夕方にかけて通行人を無差別に次々と包丁で刺し、自転車で逃走。その後しばらく自宅に潜伏していたものの、昨日の午後、近所の公園で叫び声をあげて暴れているところを駆けつけた警官に取り押さえられ、逮捕されました。逮捕されたとき岩藤容疑者は、快晴であるにも関わらず傘をさしていました。

取調べに対し岩藤容疑者は、傘を刺している人間なら刺しても平気だと思った、雨が憎かった、などと話しているそうです。次のニュースです。」

文章:ビール