『遅刻』

「すみません、今すぐ行きます!」

精一杯申し訳なさそうな声を絞り出してそう言い放つと、僕は返事も聞かずに電話を切って駅の方角に走り出した。

バイト先の店長はカンカンに怒っていた。止めどなく怒り続けた。お前はクズだ、クズだ、本当にクズだ、人間の醜さの結晶だ、ゲロみたいな顔しやがって、性格の汚さが顔に滲み出てんだよ、お前のな、お前のその濁った目とひきつった笑いが俺は大っ嫌いなんだ……などと、とんでもない悪口を早口でまくし立て、電話中、始終怒鳴りっ放しだった。

たかが十五分遅れるというだけで、しかもこうして連絡まで入れているというのに、何をそんなに怒るのだ。全く意味がわからない。この時間帯、どうせ客も居るまい。一杯のコーヒーで最低三時間はねばるような常連を除いて、客はほぼすべて駅前のスターバックスに取られてしまった。僕が遅れたからといって、何の問題があると言うのだ!

僕は電車に飛び乗った。一駅だけだったが、車内が随分すいていたので座席に座った。ふぅ、と一つ息を吐いて、目を閉じる。まぶたに刺さる赤い光が目に痛い。何と言い訳したものか。パスケースを落とした、車椅子の人が階段を降りようとするのに手を貸していた、実家から突然電話が入り「心の準備をしておくように」と言われた、反対方向の電車に乗ってしまった、献血してた、貧血で倒れた、募金活動のババアに捕まって延々一時間話を聞かされていた……。

と、おかしなことに気づいた。電車が一向に止まらない。一駅間、三分とかからないはずの距離なのに、もうかれこれ十分は走り続けている。止まりそうな気配もないし、そう言えばどことなく外の景色も見慣れない感じがする。車内の電光掲示板や路線図を見る限り電車は間違っていないようだし、いくら焦っていたとはいえ乗り慣れた電車を間違えるはずがないのだが……。

だが、それでも電車は走っていた。もう十五分は乗っている。恐ろしかった。僕は言い訳を考えることに意識を集中させて、この薄気味悪い発見には知らん振りを決め込むことにした。が、二十分が経過したところで堪えられなくなった。おかしい、おかしな電車に乗り込んでしまった。三分で着くはずの電車が二十分も止まらない。どうしたものか。店長には十五分、十五分遅れるだけですからと念を押したのに、この分でいくと三十分以上遅れることは間違いない。

気が狂いそうだった。僕は立ち上がり、車両を移動しながら乗客の顔色を窺ってみたが、異変に気づいているのは僕一人で、他は誰も取り乱したり焦ったりはしていなかった。時間が止まってしまったような気もしたが、時計の針は着実に進んでいる。店長が僕にゴキブリとかウジムシとかゾウリムシとか、酷い雑言を投げかける様が脳裏に浮かんだ。

僕は車内に立ち尽くした。足が震える。汗が吹き出る。両の目に夕陽の光が差し込んで来て、網膜を赤い光で焼いた。僕は、目を開けていられなかった。

文章:ビール