『雲』

机に突っ伏して寝ていた僕は、腕の痺れと頬骨の痛みに堪えかねて、飛び起きるように頭を上げた。が、まだ視界は曇り、思考は眠っている。

(今、何時だ?)

時計は昼の十二時半を指していた。だが、とてもそうとは思えなかった。何故時計の針なんていう正確さの象徴みたいなものを疑って、自分の頭なんていう恣意性の塊みたいなものを信じようと思ったのかはわからない。とにかく今が十二時半だなんて、どうやったって信じられそうになかった。

僕は机に置かれていた昨夜ゆうべの飲み残しの缶ビールに手を伸ばし、ゆっくりと喉に流し込んだ。もし今が確かに十二時半であるならば、僕は陽香との待ち合わせをすっぽかしたばかりか、朝イチで入れなければならなかった仕事の電話も完全にやり過ごしてしまったことになる。

「陽香とは別れてもいいけど、クビはいやだな」

僕はもう一口ビールを飲んだ。そして、ふらふらと立ち上がり、床に積んである書類や本やCDやらを蹴飛ばしながら、無意識的にカーテンを引いて窓を開けた。雲を見なければならないと思ったのだ。

晴天だった。完璧過ぎてリアリティがないほどに晴れ渡った、青一色の抜けるような空だった。

その中を、ひとひらの雲が流れていた。それは人の顔の形に見える。泣きながら僕の頬を張ろうとしている陽香の顔のようにも見えるし、顔をしかめ、芝居がかった溜息を吐きながら「残念だが、私にはもう君をかばってやることはできない」とか言って僕にクビを通告する支店長の顔にも見えた。弁当箱を開け、僕が残したおかずを見つめながら、今にも泣き出しそうな顔で「食べなきゃ駄目じゃないの」と言った母の顔を思い出したし、化学の教師を殴って停学処分を食らった僕をあわれんでくれた川村という名の女の先生の顔を思い出した。

いつも僕は厄介者扱いされてきたのだな、と、表情を変える雲を見つめながら思った。雲はイマジネーションの映写幕であり、イマジネーションは僕の心理状態の裏返しだ。何の意味もない雲の形から形象や意味を読みとってしまうのは全て僕のイマジネーションの仕業だったし、イマジネーションの働き方は、その時の僕の気分やコンディションに左右される。雲を見れば全てがわかる、雲の中には世界の全てがあらかじめ描かれている、と言った作家がいたが、僕は今頃になってその謎めいた言葉の意味を知ったのだった。

僕はもう一口生ぬるいビールを飲んだ。雲はまた表情を変え、また一つしかめ面をした思い出がよみがえった。

文章:ビール